430 Paper St.

映画が主の、趣味関心5次元空間

『V.』トマス・ピンチョン、かすかにアマチュア感が残るかわいげモンスター

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謎解きの快楽宮(プレジャー・ドーム)へようこそ。
闇の世界史の随所に現れる謎の女V.。
その謎に取り憑かれた<探求者>ハーバート・ステンシルと、そこらはどうでもいいベニー・プロフェインの二人は出会い、やがて運命の地へと吸い寄せられる……。
V.とは誰か?いや、V.とはいったい何なのか?
謎がさらなる謎を呼ぶ。手がかり多数、解釈無数、読むものすべてが暗号解読へと駆り立てられる――。
天才の登場を告げた記念碑的名作、ついに新訳成る。

どんな小説?

V.を読んだ。
はじめに書きますが、作品解説や解釈と呼べるようなものはネットでも多く出ているしピンチョンの作家ガイドにも書いてあると思うので書きません。書いたとしてもその辺の寄せ集め劣化コピーになってしまうので、ここではかんたんな紹介とこれから読む人へのアドバイスと、感想にとどめておきます。

歴史にたびたび現れる謎の女性?V.を追う…とは聞いていたものの、1章を読み終わってもそんな気配全くなし。今まで読んだどのピンチョン作品よりもポップでドタバタ、楽しい!

ただ、筋がなかなか見えてこないのも当たり前、というのはこの小説はダブル主人公なのです。このことは最初に引用して載せた上巻の帯に書いてあるキャッチ用のあらすじがよく表しています。そう、一章で登場する主人公、プロフェインはそんなこと、V.なんてどうでもいいのです。もっとも、一章の時点ではステンシルと出会ってさえもいないのだけれど。

読みにくさの原因

さて、ピンチョンの中でもポップと呼ばれていながらも読みにくい小説にさせている大きな理由がひとつあります。今作はダブル主人公なため、プロフェインの章とステンシルの章があります。プロフェインのパートはどうもピンチョンの個人的な経験を元にして書かれている(詳しくはあとがきや訳者のひとり佐藤良明さんのブログを読もう)のでポップで、情報量はあるものの軽くも読めます。その一方で、ステンシル・パートはピンチョンが歴史書やら昔のガイドブックやらを調べ上げた蓄積を元に書かれている(と、「スロー・ラーナー」のまえがきを読むと言い切れる)ため、こちらにも相応の知識が必要な書き方をしています。ピンチョン作品全部を読んだわけではないけれど、後に書かれた作品ほど、調べた”お勉強”の部分がうまく練り込まれ溶け込んでるのに対して、「V.」ではどうもはっきりと「ここはよく調べて書いたなあ」という部分が出てしまっています。
というわけで、「V.」に関しては”お勉強”の部分を見分けて、ある程度見切りをつける必要があると感じます。

特に悪名高いのが第三章で、色々な感想を読んでいるとここいらで挫折する方が多いらしい。それもそのはず、”お勉強”の部分であり、「スロー・ラーナー」のまえがきを読む限り1899年発行のエジプトの旅行ガイドブックを参考に書かれているらしい。それも、「スロー・ラーナー」所収の「アンダー・ザ・ローズ」というスパイものの小説を、その場にいた人たちが目撃した視点で語り直すという手の込んだものなのです。しかも、そもそもその目撃者が実際書き記したものではなく、周辺情報を調べ上げた?ステンシルがその場の目撃者になりきって書いています*。
ただ、どの語り手も皮肉と哀愁を持ち合わていたりと魅力的なところがあり、彼らの話だけでも読みたいくらいです。特に全編通してトップクラスに好きな一節

ゲブライルは星のない夜が好きだった。人々が信じてきた巨大な嘘が、ついに暴かれるような気がして……

なんてことを語る登場人物も出てきます。

*小説の手法としての語り手についての問題は訳者あとがきに詳しいので細かいことは言わない

これから読む人へ

まあそんなわけで、これから読む人へのアドバイスをすると、ピンチョン全般に言えることかもしれませんが、読む時間の1/5くらいは調べ物をする覚悟で読みましょう。それをしつつも、怪物ピンチョンだって調べて書いたものなので挫折しないよう諦めるところは諦めて読み進めていくのが大事だと思います。

そして章ごとにボヘミアン小説、歴史小説、スパイ小説、医学書、詩…と変幻自在な文体を楽しんで欲しいです。

感想

そして、私自身の感想を書くと楽しい小説でありながら思い詰めたところがある最近の作品よりも、風通しが良く足取りの軽い「V.」は楽しく読めました。初めに「L.A.ヴァイス」と「逆光(一章だけ)」を読んだ私にはピンチョンは怪物にしか思えなかったのだけど、「スロー・ラーナー」と「逆光」を読んでピンチョンも人である、初めから満足に書けるわけでもなくお勉強もする、それこそスロー・ラーナーであるということが分かりました。もちろん帯には「かいぶつがあらわれた」や「記念碑的名作」、「衝撃的なデビュー」と書いてあり、それは事実だけどピンチョン作品の中ではかわいいところのある作品なので、これからピンチョンを読みたいであるとか、いきなり「重力の虹」を読むのが不安だという人は「V.」もしくは「スロー・ラーナー」から始めるのもいいのかもしれません。どちらも完璧な作品ではなくても、声を出して笑うようなところもあり、ハッとするような美しい文章がときおり出てきたりします。特に作者25歳の苦悩(恋愛や職業について)が見えたりと、27歳でありながら大学をやっと卒業して職なしの私には重なる部分が多く、「分かるよ!分かるぞピンチョン!」と怪物であるはずのピンチョンに対して、そしてピンチョンの中にも見えてくる自分自身にエールを送っていました。そう、今読んで良かったと思える一作でした。
そんな自分がとっても共感した一節を何個か引用して締めとします。

経営方面に進めれば小説など書き出し、工学や建築のほうに進めば絵か彫刻をはじめるというタイプだ。そんなことではどちらの世界でも最悪の結果になることは知っていても、境界線をまたぐことをやめられない。というか、なぜ線が引かれなくてはいけないのか、そもそも境界なんてものが存在するのかと疑っている。

―きっと工学部から文学部へ行ったピンチョンのことでもあるでしょう。

木偶の不器男であるプロフェインにとって「女」はいつも偶発事故(アクシデント)のようなものだった。靴紐が切れる、皿が落ちる、ピンがついたまま新しいシャツを着てしまう、そんな感じで、女という出来事が「身に降りかかる」。フィーナも例外ではなかった。

―ピンチョンも積極的に彼女は作らないタイプなのかな

今の世界は、ぶらぶらしている若者をよしとせん。若さとは有用なる目標に向けて活用されるべきもの、絞り尽くされるべきものというわけだ。遊びの時間はゼロ、ヴィーシューはおしまいか。やれやれ。

―メキシコで「V.」を書き始めたピンチョンを思い出します。

 

ね、読みたくなったでしょ? 

 

T2前に振り返るトレインスポッティング

(あらすじ)依存と共依存から命からがら逃げます

シック・ボーイの額から、汗が滝のように流れ落ちていた。震えている。俺はひたすらテレビを見つめ、やつに気づかないふりをした。こいつにはうんざりだ。俺は、ジャン=クロード・ヴァン・ダムのビデオのことだけを考えようとした。

―小説版 トレインスポッティングの書き出し

トレインスポッティングの映画版から20年が経ちT2が日本で4/7公開です。
トレインスポッティングとはどんな話だったのか、小説版と合わせて振り返ってみたいと思います。それにしても映画を観ずに初めて読んだ人は度肝を抜かれたであろう書き出しですね。シック・ボーイ。

まずトレインスポッティングの意味について間違った解説もちらほら見るため書いておきます。
英語ではTrainspottingなので見ての通りTrainとSpottingから成り立っています。
元の意味ではTrain(電車)をSpot(見つける)ということで、通る電車の型番を識別することです。「何系が走ってる!」と日本でもよくやっていますね。ひろく解釈してオタク行為のことをさすこともあるようです。

しかし、原作者のアーヴィン・ウェルシュはこの単語を別に解釈します。
Trainは電車の意味ですが、元は「連なる」という意味です。また、Spotは名詞の場合染みの意味があります、これを動詞のように解釈すると「染みをつくる」となります。つまり、アーヴィン・ウェルシュTrainspottingを「連なった染みをつくること」と解釈しました。この映画を観れば分かりますが、連なった染みとはヘロイン注射の痕のことです。しかし、実際小説版でも映画版でも作中でこの言葉について直接解説されることはありません。むしろ、小説版では列車見物の意味で一度出てくるだけです。

小説版ではなんと、腕の静脈が見えにくい主人公レントンは自分のおちんちんに刺すなどしています。妙に笑わせようとしてくるのも小説版の魅力なので是非映画を観た人も読んで見てください。ハヤカワから新訳で出てきています。

小説版について簡単に書きますが、処女作ということもあってか、かなり散文的で話が進んでいるのかどうなのかも分からずやたら登場人物が増えていくといった印象があります。しかし、その散文的な分、ドラッグになぜハマるのか、性事情やHIVについて、イギリスの階級について、映画や音楽やスポーツ、スコットランドの閉塞感、なぜ彼らは社会に向かわないのか等、真に言いたいことが散りばめられています。
映画版ではかなり多かった登場人物をいっきに絞り、話の筋も見えやすくなっています。主人公一味ですら8人くらいいたのでいい判断でしょう。

では、映画版で強調されたこのトレインスポッティング話の筋とはなんなのでしょう。それは”依存”と”選択”です。そしてこの、依存と選択とは対立する概念です。主人公たちは、ドラッグ依存です。冒頭いきなり、レントンは禁ヤクという”選択”をするものの厳しい現実とドラッグの魅力に抗えずまたヘロインへと”依存”していきます。

途中の電車で山に行くシーン(小説版にはありません)で「こんなクソみたいな国、新鮮な空気を吸ったってなんにも変わんねえんだよ!!!」とスコットランドの閉塞感についてレントンが叫ぶシーンがあります。この閉塞感の中で社会に限界を感じている主人公たちはドラッグでぶっ飛び、内輪に籠もります。主人公たちがドラッグへと走る社会的な要因が説明されるいいシーンとなっています。余談ですが、リバイバルのフィルム上映で一番輝いたのはこのシーンでした。昔DVDで観たときは映画の中で少し浮いたように見えていたこのシーンが映画の核であることが分かったいい体験でした。

また、彼らの依存は実はドラッグだけではありません。主人公一味は互いに”共依存”の関係があります。それが分かるのは映画版で大幅に足されたレントンがロンドンで生活をするシーンでしょう。レントンエディンバラの連中に見切りをつけ、ロンドンの不動産会社で働くという”選択”をします。まっとうに自立したかと思われましたがシック・ボーイとベグビーが一人暮らしの家へとやってきて生活を荒らされます。せっかく都会で大人になるチャンスであったのに、エディンバラの一味に潰されます。映画のクライマックスで、ベグビーの凶行とたばこの煙を被せられることが引き金となってレントンが”選択”をするシーンもロンドンでの一人暮らしのシーンから共依存の危うさを積み重ねられてることから自然に思えます。

Twitterなどでトレインスポッティングの続編決定について色々な感想が読めました。多かったのが「昔はかっこいいと思ってたトレインスポッティングの登場人物達も今見るとどうしようもない。ドラッグで身を滅ぼすなんてダサい。」といったような感想でした。
トレインスポッティングたちの登場人物たちはそんなに自分たちから遠く、下の存在なんでしょうか。私はそうは思えません。
電車で周りを見れば、SNSスマホゲームをやるため一心不乱に画面を触っている人たちがたくさんいます。ギャンブルがやめられない人だってたくさんいるし、毎日スーパーかコンビニでお酒やタバコを買わずにはいられない人もいます、これらはソフトな合法ドラッグと言えるかもしれません。アイドルにたくさん貢ぐ人もいるし、彼氏や彼女と数日離れただけで寂しくなる人もいます。かく言う私だって、文字を使わない作業中はラジオが欲しいし一日の多くを映画や小説やゲームなどフィクションに浸って過ごします。
みんな何かに依存しているのです。トレインスポッティングの主人公たちはヘロインという身を滅ぼす上に化学的な依存性があるものにハマってしまいます。しかし、レントンはドラッグ依存と一味の共依存に気づき、選択ができました。私たちは自分が依存しているものを自覚できているのでしょうか?気付けていない人もいるでしょう。さっき上げた例を批判したいわけではありません。しかし、気付けずコントロールできないことは問題だと考えます。もしかすると、依存に気づき脱することができたレントンはドラッグなんかやらない私達よりも上にいるのかもしれません。

では、T2トレインスポッティングに話を移します。
レントンは選択をしました。仕事や家族や家具を選ぶ選択をしました。
公開から20年経って、トレインスポッティングをリアルタイムで観ていなくても初見時から大人になった人たちが多いはずです。レントンの最後のモノローグのような選択を私達はできたでしょうか?
人生を、無限の選択肢から自由に選べたでしょうか?仕事や結婚相手を選べたでしょうか?家具や家電だってお金やスペースの問題でほとんど選べないのが人生かもしれません。
レントンがした選択とは次の人生の始まりに過ぎなかったのです。
20年後の彼らはどうしているでしょうか。彼らの選択の結果はどうだったのでしょうか?
レントンは、持ち逃げした金を元手にアムステルダムでクラブの雇われオーナーをしています。ベグビーやシック・ボーイには怯えているようで空手を習っています。そしてとはうまくいっていないようです。
シックボーイはロンドンでくすぶっていましたが、故郷のリースでパブを相続します。
スパッドは結婚をしていますが相変わらなので愛想を尽かされて少し参っているようです。
ベグビーは殺人罪で服役中で…
私達が理想の自分になかなかなれないように、彼らももがいているようです。続編でますます彼らのことが自分と遠い存在ではなくなりそうですね。

 

下書きに放っておいたら町山さんにだいたい言われてました。さっさと投稿すべきであった。

(2017.4.7追記)なお、町山さんはトレインスポッティングの意味の解釈は映画ファンが作ったように話されていましたが、原作でダジャレのような言葉遊び(トイレシーンでヤクの意味でのshitと便の意味でのshit等など多数)が多いためアーヴィン・ウェルシュは分かってタイトルにしていると思います。

『インヒアレント・ヴァイス』よく分からなかった人のために

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(あらすじ)誰か教えてくれ

随時、原作小説である「LAヴァイス」を参照しますが、あくまでこの記事はその映画版である「インヒアレント・ヴァイス」の理解のためのものです。また、映画を一度しか観ていないためセリフ回しなど怪しいところがあります。後日加筆訂正する予定です。

筋が分かりにくい

「インヒアレント・ヴァイス」は「一体何の話をしてるんだ!!!」と言いたくなるような映画かと思います。

失踪したLA不動産界の大物ミッキー・ウルフマンを探し出すというのが物語の目的かと思うとウルフマンとの邂逅は果たすものの少し会話をしておしまい、ウルフマンとの接近は主人公ドック(ホアキン・フェニックス)にも何の影響も与えません、そもそもドックは常にラリラリなので現実の何が彼を変えられるのか分からないですが…。

では、物語を動かしテーマとなるのは元恋人で今はウルフマンの愛人でもあるシャスタかと思うとそうでもありません、冒頭こそドックの元に久しぶりに現れ依頼をしますが、その次にはウルフマンと同時に失踪し、心配していると後半にひょっこりと現れなんだか風のようです。ドックとシャスタの急な再会には長回しで非常に時間が割かれていますが二人には進展や別れなどは訪れません。シャスタはこう言います「よりを戻したわけではないのよ。」冒頭と状況は変わりません。

一度映画を観ただけでは訳が分かりませんね。

 

時代の移り変わり

ポール・トーマス・アンダーソン監督(以下PTA)の2作目「ブギーナイツ」は70年代から80年代への移り変わりにおけるポルノ業界の内幕もので、万事順調であった70年代と何もかもうまく行かない80年代を皮肉な対比で描くことによって(ラストでは80年代にかすかな希望を抱かせるものの)結果的に70年代への郷愁を呼び起こさせる内容でした。

今回は1970年が舞台で、事ある毎に60年代の実際の事件や文化、ドックとシャスタのカットバックが入ります。ベトナム戦争や黒人差別で政府や既存の価値観が揺らいだ60年代の希望であったヒッピーブームもチャールズ・マンソン事件でぶち壊されようとしています。今回も「ブギーナイツ」のように時代の移り変わりの残酷さの話であると言えます。

映像は粗めのフィルム撮りで傷や画面揺れが多く録音もノイズだらけで、一辺倒なカット割りをしたりイマジナリーラインを越したりと洗練された普段のPTAの映画とは異なり70年代当時の映画と言っても信じてしまうような作りです。このように「ブギーナイツ」に似た構造だけでなく作風からも映画の持つ時代性が重要性となっていることが分かるかとおもいます。

 

ヒッピー文化に肩までつかるドックと次に進む登場人物

では主人公ドックとはどういう人物か、60年代的ヒッピー文化の終わりの始まりにおいても主人公ドックはLSD探偵社なんていう名前で私立探偵をし、ヒッピー文化の只中にいます、もちろんマリファナやりまくり。

ドックが話の最後に救う人物であるコーイ・ハーリンゲン(オーウェン・ウィルソン)はというと60年代に彼は妻と破滅的にドラッグをやりまくり楽器の演奏で小金を稼ぐというヒッピーなライフスタイルを送りますが、彼は政府に利用され政府と民衆の間に立つという60年代的な板挟みになった挙句に社会的に消され家庭を破滅させられます。しかしドックはクリスキロドン側の大物(小説では影のフィクサーとなっています)クロッカー・フェンウェイと取引をし、彼は妻と子どもの元に戻りAMEXカードを持つ世間で言うまっとうな人生へと踏み出します。AMEXカードは僕らの世代が思う現代的な消費主義のアメリカンライフスタイル(揺らいでますが)の象徴と言えるでしょう、そんな60年代ヒッピー的ライフスタイルからコーイは抜け出して行きます。

通しで見るといわゆるマクガフィンでしかなかったミッキー・ウルフマンは「住宅は無償であるべきだ」とのヒッピーもびっくりな浮世離れした考えから財産も寄付しようとしますが、最終的にはビジネスに復帰します。

戻ってきたシャスタ(キャサリン・ウォーターストン)も「わたしはインヒアレント・ヴァイスだ(内なる欠陥がある)から保険は効かない」「よりを戻した訳じゃないのよ」とこの先ずっとドックと一緒にいるわけではないようなことを言います。

ビッグフット(ジョシュ・ブローリン)もドックのお陰でトラウマであった相棒殺しの犯人へ復讐を果たします。また、毛嫌いしていた海辺の路上生活者ども(ヒッピーたちのこと)についてもマリファナの草をそのままむしゃむしゃすることによって乗り越えたと言えなくもありません。

では、ドック自身はどうか。何も変わっていません。取り残されてしまいました。

 

時代に取り残されかけているドック

ラストシーンはその消えてしまいそうなシャスタとドックが濃霧の中、車中で身体を寄せています。ドックはこの先60年代の終り、ヒッピー文化・マリファナ文化の終わりで何処へ向かうのでしょうか、そしてそこに"インヒアレント・ヴァイス"なシャスタは付いてくるのか…。

蛇足ですが小説版ではインヒアレント・ヴァイスとはロサンゼルスという土地のことでもあり、サンアンドレアス断層(今度映画になりますね)のことでありインディアンから奪った呪われたカルマの地でもあるとのことですが、このことは映画では言及されず、シャスタに絞っています。

小説版のラストでは濃霧のハイウェイで自分の”出口”が見えない中皆が前の車のテールランプを隊列を組みながらなんとか車を前に進め、もし行き過ぎてしまったら”何か”を待つしかないという描写で終わります、ビーチボーイズの"God Only Knows"がラジオから流れながら。「君がいなかったら僕はどんなになってただろう。」

世界がヒッピー文化から抜け出す中、ラリラリ探偵はこの先どこに向かうのか。

「インヒアレント・ヴァイス」は時代にたった一人で取り残されるドックの物語なのです。え、確かにデニスはいるけどさ?佐藤良明氏いわくデニィスでペニィスと韻を踏んでるとのことだからさ?

 

ドックとシャスタとエンディング曲

また、時代に取り残されてもシャスタの愛があるというような生ぬるい話には全くならないことは注目すべきです。

エンドロールでかかるChuck JacksonのAny Day Nowの歌詞を見ればドックの孤独が理解出来ると思います。


Chuck Jackson - 17. Any Day Now (Inherent Vice ...

出だしの歌詞は

Any day now I will hear you say, "Goodbye, my love"
And you'll be on your way
Then my wild beautiful bird, you will have flown
Any day now I'll be all alone

です。訳しますと、

"いつの日か、君は言うだろう「さよなら、愛しい人」
そして君は自分の道を行くのだろう
僕の美しき野鳥よ、君は飛んで行って
いつの日か、僕はひとりきり"

時代だけでなくシャスタにも去られてしまうドックが浮かび上がります。

小説版とのトーンの違い

この映画はよくピンチョン小説そのものだとか、完璧な映画化だとか書かれていていますがトーンについてはかなり異なっていると思います。

小説では常に陽気なサーフ・ロックがかかりドックも口ずさむのはビーチボーイズでも"Wouldn't it be nice"など明るい歌ですが映画版ではジョニー・グリーンウッドの重々しいスコアばかりで明るい曲は鳴りを潜めています。

 

PTAにとってのインヒアレント・ヴァイス(ここからはパラノイア妄想)

何故細かいギャグだらけでヒッピーの映画なのにこんなに重々しいのか!このことも次に書くことが念頭にあれば納得かも?

監督のPTAの前作「ザ・マスター」まで皆勤賞で突然ヘロインのオーバードーズによってこの世を去ってしまったフィリップ・シーモア・ホフマンの中に内在する欠陥”インヒアレント・ヴァイス”を見てしまうのはパラノイアでしょうか?
彼も船の積み荷(「ザ・マスター」は船がテーマでしたね)で保険が効かないインヒアレント・ヴァイスな物(ガラスは割れる、たまごも割れる)の一員で仕方がないことだったのでしょうか?

 

(2015.4.28 ミッキー・ウルフマンのその後とED曲について追記)

「フランシス・ハ」フランシスに対するいじわる

「フランシス・ハ」に非常にいじわるというかイタズラめいた箇所を発見したためかんたんに書いておきます。

不吉な左向き

フランシスが極貧生活に陥った次のシーンから。

税金の還付の通知が届き一気に極貧生活を抜け出します!(ファンファーレみたいな音楽がかかる!) 

その勢いのままるんるんと外に出てレヴ(アダム・ドライバー)を食事に誘いますが左上に左向きの"ONE WAY(一方通行)"

映画において左向きは不吉な方向です。(検索すれば詳しいものがたくさん出るはずなので詳しくははぶきます)f:id:nomotchan:20150222021506p:plain

 

フランシスは次のカットでも左向きです、カードが通りません。

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ATMまで左向きに走ります。この間のATMが使えない状態の日用雑貨店のシーンでも左向きです。ATMでも手数料3$に一瞬ためらいます。

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現金を手にしやっと右向きに!と思いきや転ける!

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以上です、フランシスよ強く生きてくれ!

2014年新作映画ベスト

2014年に観た新作映画にランキングをつけました。 

洋画ばかりですが順に書いていきます。
あちこちで語られてる映画に関しては周辺情報を、あまり語られていない映画については本編についても踏み込んで書いています。未見の映画がある方は是非に。

 

11.ドラッグ・ウォー 毒戦

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外すに外せず11位としました、ベスト11というキリの悪い数字に。まあサッカーだサッカー、いまはアジアカップやってんだ!

公安警察の主人公スン・ホンレイ司法取引をし協力関係となったルイス・クーの奇妙な協力関係が面白かったです。ジョニー・トーらしいシチュエーションを活かしたアクションシーンも良く、シナリオ運びも分かりやすくコンパクトで好感が持てました。

ジョニー・トー初の中国本土での映画ということですが、本土の表現規制を感じさせません。むしろ表現規制を逆手に取っているのか、勧善懲悪の形を取りつつももやもやが残ります。暴力的な正義とでも言いましょうか。それと、音楽が好きです。未見の方は是非。

10.天才スピヴェット

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アクション映画やアニメーション映画などビッグバジェット映画ばかりに3Dが使われて来ましたが、小さめな映画にもやっと3Dが降りてきました。一応言うと小さな作品でもドキュメンタリーには3Dがありましたが(ネイチャー、pinaなど)、劇映画では無かったのではないでしょうか?
ともかくその結果として、天才少年であるスピヴェットの自由な頭のなかを覗くという映画体験と3D映像という表現が非常にマッチしていて、3D映画の新たな指標となるのではないでしょうか。字幕の3D処理はやっつけ仕事で人物の中に字幕が埋め込まれたりとひどかったので配給さんは頑張ってください…。

9.プリズナーズ

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監督のドゥニ・ヴィルヌーヴは同じ2014年に「複製された男」も公開されましたがこちらを推します。

許されざる者」のように「次の展開はこうかな?」「こうなるといいな」と何か期待のようなものをすると全て裏切られる油断のできない展開で153分と長尺ながら飽きずに観られました。また、二人の主人公冷静なジェイク・ギレンホール演じる刑事と失踪した娘のため熱くなるヒュー・ジャックマン演じる父親は、油断出来ない展開の映画ということもあり突飛な行動を取りますが説得力があり混迷していく話に胸が詰まりました。あとポール・ダノのやられっぷりが随一です。ジェイクは色気が爆発です。

8.ラッシュ/プライドと友情

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こういった人生哲学がぶつかる映画に弱いんです!詳しい話は町山さんのたまむすびでも聴いてもらえばいいんですが、これが実話だなんてこの世はロマンティックなところですね、痛々しいんですが。

ガラガラな新宿ミラノ2で父親と観て、飲んで帰ったのですが父親は、当時実際あのレース中に富士スピードウェイでカメラを振って写真を撮っていたそうです、羨ましい。

7.ニード・フォー・スピード

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順位は7位ですが推したい映画としては1位です。だって観ました!?逃しますよ普通。

ストーリー内容は復讐のためにレースに勝ちたいが、レースはアメリカ大陸の反対で行われそれがなんと45時間後と切羽詰まってるため出場するレースカーで大陸横断しなけりゃいけないという単純っぷり。そしてCGを(ほぼ?)使わず体当たりでカーアクションをするという今どき珍しい気迫の映画でした。車に飛び乗ったりという某シリーズのようなカーアクションではなく純粋な車でのアクションで非常に好感が持てます。

6.LEGOムービー

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すごくいいぞ!本当か?とTwitterでは錯綜していた映画。Twitterをやってなければ逃して後悔してただろうからTwitterに感謝です。

クリストファー・ミラーとフィル・ロードの監督コンビには一生ついてくことを確信した映画、LEGOの質感がかなり再現されていて髪の毛にバリがあったりと半分はLEGO愛で出来てるような映画です。

5.インターステラー

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これまた80年代のフィルム映画愛で出来たような映画。「2001年宇宙の旅」よりかは「2010年」を意識してるところがガチです。予習映画として「ライトスタッフ」など傑作をたくさん観て本編以外でも楽しめた映画です。珍しく5人の大所帯で観たのですがみんな号泣で上映自体が思い出深い映画です。

ジェシカ・チャステインがハンドルを右に切る瞬間が最高!

4.エヴァの告白

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絶大な信頼を置いているジェームズ・グレイ監督作。マリオン・コティヤールが美人じゃなければここまで話もこじれなかったろうに…。

1900年代の初め頃のニューヨークの移民の話は「ゴッド・ファーザーⅡ」や「ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ」などギャング物ばかりしか知らなかったので女性が主人公というのは興味深かったです。厳しい時代での女性の罪という心苦しい題材を重厚に描きます。

3.ゴーン・ガール

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デヴィッド・フィンチャーの神経質な映画作りが今作も極まっていたので上位にせざるを得ないです。デヴィッド・フィンチャーが何に神経を注いだのか詳しくは記事を書いたのでこちらを読んでいただきたいです。

年内では2度観ましたが、劇場の明かりがついてからのため息や男子大学生の「マジかー…。」が忘れられません。

2.フランシス・ハ

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 モダンバレエダンサーとして活動している主人公ですが、稼ぎは少ないので親友とルームシェアをしています。共存関係と思いきや親友のほうが先に大人として自立したため、いっきに自分の不甲斐なさが出てきてしまい…と私と一緒に観た友達には笑えない内容。一緒に観た友達は鑑賞後にひどく落ち込んでいましたが、自分としてはそんな笑えない内容をコメディとして描いてくれいたことで落ち込みつつもあまり暗くはならず前向きな映画に思えました。

初期のジム・ジャームッシュの現代解釈となっていることも良かったです。これについては記事を書きたいと思います。

1.ジャージー・ボーイズ

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宣伝のコピーにもなっていましたが後半10分は映画の魔法です!そしてその奇跡の10分はイーストウッド版「グッドフェローズ」の中に存在しているんだからもうたまりません。イーストウッドの監督作は毎度一度観れば満足していたんですが中毒になり3週間で3回観ました。名画座でかかった際は皆さん是非。

まとめ

というわけでまとめると

2014新作ベスト
1.ジャージー・ボーイズ
2.フランシス・ハ
3.ゴーン・ガール
4.エヴァの告白
5.インターステラー
6.LEGOムービー
7.ニード・フォー・スピード
8.ラッシュ/プライドと友情
9.プリズナーズ
10.天才スピヴェット
11.ドラッグ・ウォー 毒戦

です。特に10月以降が傑作ばかりで追うのが大変でした。2014年はアメコミ映画なども充実でしたね、2015年にも期待します。

 

「ゴーン・ガール」視線で語る、雲をつかむような映画

 

「ゴーン・ガール」視線で語る、雲をつかむような映画

「ゴーン・ガール」は監督のデヴィッド・フィンチャーの中で最大のヒットとなっているそうです。しかし、Twitterなどで感想を読んでいると内容に驚いた方はもちろん多かったのですが、監督デヴィッド・フィンチャーの最新作としては「?」でありピンと来ていないという感想を何度も観ました。今回は彼の最新作として「ゴーン・ガール」を見ていきます。

デヴィッド・フィンチャーは「ゾディアック」以降、特殊な撮影をしたと一見して分かるシーンが減り、地味とも言える作風となっています。また、「観客に衝撃を与えたい」との発言もありますが、毎作適切な語り口で映画を描き作品ごとに演出スタイルが異なるため、彼のフィルモグラフィーに対して画一的な見方は出来ません。

では、今回の作品に対してどのような見方をすれば良いのでしょうか。キーワードを挙げるならば「視線」と「つかめなさ」でないかと考えます。

 

 

視線

自己という情報のメディア化

最近のフィンチャーが扱うテーマとして「情報」があります。「ゾディアック」は各地で見つかる本物とガセ(模倣犯であったり)の情報に埋もれ翻弄された主人公記者と警官たちの話であり、「ソーシャルネットワーク」は証言という過去の情報から(事実とは異なるあくまで映画としての解釈であるが)マーク・ザッカーバーグという男を浮かび上がらせました。「ドラゴン・タトゥーの女」でも主人公は記者であり、瞬間記憶能力を持ったリスベットとともにほとんど化石化した情報群からハリエット失踪事件へ迫って行きました。

そして今作「ゴーン・ガール」ではついに情報を扱う主人公ではなく、主人公自体が情報と化してしまいました!妻が失踪してしまった主人公ニックの一挙一動が情報としてマスコミにより放映され世論を動かし、ニックは妻殺しとの疑いをかけられてしまいます。そして、それを晴らすために自らテレビに映り情報発信をし自身をメディア化してしまう!(「ドラゴン・タトゥーの女」でもミカエルはマスコミの報道により信用を墜としますが、回復の過程において自ら発信などはしません)

このように自分を情報として発信した場合に重要になってくるもの、それが他者からの「視線」です。

予告でみる「視線」

主人公を見る周りの「視線」に注意して予告を観てみよう。


Gone Girl Official Trailer #2 (2014) Ben Affleck ...

特に予告の中盤、エイミーの両親や警官たちがニックを見る目が強調されていることに気がついたと思います。元々リテイクが多いフィンチャーですが今回は特に多く、平均で50回くらい撮っているという噂なのですが、このリテイク数は視線の演技やそのタイミングに相当の神経を使ったのだと考えられます。ソフトが出たらメイキングで確認したいところです。フィンチャー作品はメイキングがおもしろい!そこにこだわる!?の連続です。

また、人物が視線を動かしその目線へカットが切り替わることが多く、相当緻密に撮影のプランニングをしていたのだと思います。そして、そのフィンチャーの持つビジョンに映画を近づけるためのリテイク数なのではないでしょうか。
視線で言えば、特にエイミーの供述シーンが興味深いです。ボニー刑事と他の刑事の目線の動かし方が全く異なっています。目線だけでエイミーを疑うボニー刑事とエイミーに上手くしてやられている他の警官達とを分けたのです。このシーンでボニー刑事の鋭い指摘をエイミーがかわす方法にも目線が効果的に使われています。都合が悪くなった途端くらくらしてきたと言い目線を下げ、他の刑事を味方に付け質問を制止させるというキレ技を出すエイミーが印象的です。

 

 

つかめなさ

カット

そしてもう一つ「つかめなさ」について。

「ゴーンガール」はカットが非常に短い。歌舞伎で言う見栄のようなタメたショットがほとんどないため、終始事態をつかみきれない印象を受けます。
これはニックが自らも捜査を行っていた原作を、まわりで事態が勝手に動いていくようにした脚本に変更したことも関係しています。ニックに心の準備があろうとなかろうと、物事を飲み込めていなくても動いて行く様は、カットの早さで強調されています。

タイトルシークエンス

さらに、タイトルシークエンスが印象的です。

タイトルやキャスト名は通常4秒程度以上出すのが基本だそうですが、「ゴーン・ガール」ではなんと2秒ほどと半分ほどの時間しか出していないそう。かろうじて読めるがすぐに消えてしまいます。
これは冒頭のエイミーの後頭部を写したショットのナレーション「結婚の基本的な疑問、―なにを考えている?何を感じている?二人の間に何があったのか?」と呼応しています。一番親しいであろう結婚相手の頭の中さえ分からず、雲をつかむようなものなのです。ちなみにそのつかめない雲のイメージは、ポスターなど宣伝物でかなり強調されています。

f:id:nomotchan:20141227214636j:plain劇場公開ポスター

GONE GIRLという文字は雲の後ろに隠れ、つかめず消えてしまいそうです。ニックの様子を見るエイミーも雲の後ろにうっすらと見え映画の展開を示しています。

そして理解していたはずの結婚相手は実は違ったという"つかめていなかった"こととは今作のテーマのひとつと言えるでしょう。

 

 

まとめ

他人からの疑いの目を向けられているニックを「視線」の演出で、ニックが身の回りのカオスにより流されていくしかないことを異常なほどの「カット割の多さ」で、思考が読めない結婚相手であるエイミーを雲を使った「つかめなさ」で表現しています。

 

補強(2015/2/22追記)

この記事に書いた全体を補強するような事実を2つ見つけたのでここに追記します。

まずは雲がポイントということについての補強です。
ゴーンガールにVFXで何を足したかの動画ですが、最後のエイミーがカジノに向かうシーンで雲を意図的に足していました。


Gone Girl - VFX Breakdown - Vidéo Dailymotion

 また、この記事を書いた後に映画館で見直しましたが(3度目)夫婦関係に暗雲が立ち込めてきた時期から失踪中のシーンは空が映ると文字通り画面上に雲があり、エイミーが戻ってくるシーンからは快晴になっていました。雲待ちが必要な時代じゃなくあとで足したり消したりすごい時代ですね。

 

次に目線とカットについての補強です。

たまたま「明日に向かって撃て」を観ていて非常に「ゴーン・ガール」と似たカットの割り方をしているシーンがありました。

ブッチとサンダンス・キッドが自分の育てたギャング集団に戻ると裏切られナイフファイトに発展しかけるシーンで、ギャングが気まずくなり視線をやたら動かしブッチとサンダンス・キッドも目配せしながら次の出方を伺うシーンです。上に貼った予告と比べると目線を動かして目線の先にカットを切り替える編集が非常に似ていますね。


BUTCH CASSIDY & SUNDANCE KID: Knife Fight - YouTube

 

明日に向かって撃て」のたった1シーンですが、フィンチャーはこの作品を「お気に入り26作品」(http://www.imdb.com/list/ls073271921/) (順不同のリストです)に挙げているため参考にした可能性は非常に高いと言えます。

(追記終わり)

 あとがき

初記事でした。読んでいただきありがとうございます。

「ゴーン・ガール」のストーリーに衝撃を受けたもののフィンチャー最新作としてさっぱりだった方はこの「視線」と「つかめなさ」に注目して観るとフィンチャーのした仕事が分かるのではないかと思います。

フィンチャーが予算を獲得できず企画がボツになるのは毎度悲しいというか、寡作なフィンチャーにとってはさらなるロスタイムなので歯がゆいです。みなさんこの記事を読んだらフィンチャーの職人魂を観に二回目へダッシュだ!!!

このブログは特に気負いせず好きな映画について、好きなときに好きな分量書こうと思っています。「ゴーン・ガール」については他に原作との違いについても書こうと思います。誰も1映画1記事とは決めていないのだよ…!

次回もよろしくお願いします。