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『インヒアレント・ヴァイス』よく分からなかった人のために

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(あらすじ)誰か教えてくれ

随時、原作小説である「LAヴァイス」を参照しますが、あくまでこの記事はその映画版である「インヒアレント・ヴァイス」の理解のためのものです。また、映画を一度しか観ていないためセリフ回しなど怪しいところがあります。後日加筆訂正する予定です。

筋が分かりにくい

「インヒアレント・ヴァイス」は「一体何の話をしてるんだ!!!」と言いたくなるような映画かと思います。

失踪したLA不動産界の大物ミッキー・ウルフマンを探し出すというのが物語の目的かと思うとウルフマンとの邂逅は果たすものの少し会話をしておしまい、ウルフマンとの接近は主人公ドック(ホアキン・フェニックス)にも何の影響も与えません、そもそもドックは常にラリラリなので現実の何が彼を変えられるのか分からないですが…。

では、物語を動かしテーマとなるのは元恋人で今はウルフマンの愛人でもあるシャスタかと思うとそうでもありません、冒頭こそドックの元に久しぶりに現れ依頼をしますが、その次にはウルフマンと同時に失踪し、心配していると後半にひょっこりと現れなんだか風のようです。ドックとシャスタの急な再会には長回しで非常に時間が割かれていますが二人には進展や別れなどは訪れません。シャスタはこう言います「よりを戻したわけではないのよ。」冒頭と状況は変わりません。

一度映画を観ただけでは訳が分かりませんね。

 

時代の移り変わり

ポール・トーマス・アンダーソン監督(以下PTA)の2作目「ブギーナイツ」は70年代から80年代への移り変わりにおけるポルノ業界の内幕もので、万事順調であった70年代と何もかもうまく行かない80年代を皮肉な対比で描くことによって(ラストでは80年代にかすかな希望を抱かせるものの)結果的に70年代への郷愁を呼び起こさせる内容でした。

今回は1970年が舞台で、事ある毎に60年代の実際の事件や文化、ドックとシャスタのカットバックが入ります。ベトナム戦争や黒人差別で政府や既存の価値観が揺らいだ60年代の希望であったヒッピーブームもチャールズ・マンソン事件でぶち壊されようとしています。今回も「ブギーナイツ」のように時代の移り変わりの残酷さの話であると言えます。

映像は粗めのフィルム撮りで傷や画面揺れが多く録音もノイズだらけで、一辺倒なカット割りをしたりイマジナリーラインを越したりと洗練された普段のPTAの映画とは異なり70年代当時の映画と言っても信じてしまうような作りです。このように「ブギーナイツ」に似た構造だけでなく作風からも映画の持つ時代性が重要性となっていることが分かるかとおもいます。

 

ヒッピー文化に肩までつかるドックと次に進む登場人物

では主人公ドックとはどういう人物か、60年代的ヒッピー文化の終わりの始まりにおいても主人公ドックはLSD探偵社なんていう名前で私立探偵をし、ヒッピー文化の只中にいます、もちろんマリファナやりまくり。

ドックが話の最後に救う人物であるコーイ・ハーリンゲン(オーウェン・ウィルソン)はというと60年代に彼は妻と破滅的にドラッグをやりまくり楽器の演奏で小金を稼ぐというヒッピーなライフスタイルを送りますが、彼は政府に利用され政府と民衆の間に立つという60年代的な板挟みになった挙句に社会的に消され家庭を破滅させられます。しかしドックはクリスキロドン側の大物(小説では影のフィクサーとなっています)クロッカー・フェンウェイと取引をし、彼は妻と子どもの元に戻りAMEXカードを持つ世間で言うまっとうな人生へと踏み出します。AMEXカードは僕らの世代が思う現代的な消費主義のアメリカンライフスタイル(揺らいでますが)の象徴と言えるでしょう、そんな60年代ヒッピー的ライフスタイルからコーイは抜け出して行きます。

通しで見るといわゆるマクガフィンでしかなかったミッキー・ウルフマンは「住宅は無償であるべきだ」とのヒッピーもびっくりな浮世離れした考えから財産も寄付しようとしますが、最終的にはビジネスに復帰します。

戻ってきたシャスタ(キャサリン・ウォーターストン)も「わたしはインヒアレント・ヴァイスだ(内なる欠陥がある)から保険は効かない」「よりを戻した訳じゃないのよ」とこの先ずっとドックと一緒にいるわけではないようなことを言います。

ビッグフット(ジョシュ・ブローリン)もドックのお陰でトラウマであった相棒殺しの犯人へ復讐を果たします。また、毛嫌いしていた海辺の路上生活者ども(ヒッピーたちのこと)についてもマリファナの草をそのままむしゃむしゃすることによって乗り越えたと言えなくもありません。

では、ドック自身はどうか。何も変わっていません。取り残されてしまいました。

 

時代に取り残されかけているドック

ラストシーンはその消えてしまいそうなシャスタとドックが濃霧の中、車中で身体を寄せています。ドックはこの先60年代の終り、ヒッピー文化・マリファナ文化の終わりで何処へ向かうのでしょうか、そしてそこに"インヒアレント・ヴァイス"なシャスタは付いてくるのか…。

蛇足ですが小説版ではインヒアレント・ヴァイスとはロサンゼルスという土地のことでもあり、サンアンドレアス断層(今度映画になりますね)のことでありインディアンから奪った呪われたカルマの地でもあるとのことですが、このことは映画では言及されず、シャスタに絞っています。

小説版のラストでは濃霧のハイウェイで自分の”出口”が見えない中皆が前の車のテールランプを隊列を組みながらなんとか車を前に進め、もし行き過ぎてしまったら”何か”を待つしかないという描写で終わります、ビーチボーイズの"God Only Knows"がラジオから流れながら。「君がいなかったら僕はどんなになってただろう。」

世界がヒッピー文化から抜け出す中、ラリラリ探偵はこの先どこに向かうのか。

「インヒアレント・ヴァイス」は時代にたった一人で取り残されるドックの物語なのです。え、確かにデニスはいるけどさ?佐藤良明氏いわくデニィスでペニィスと韻を踏んでるとのことだからさ?

 

ドックとシャスタとエンディング曲

また、時代に取り残されてもシャスタの愛があるというような生ぬるい話には全くならないことは注目すべきです。

エンドロールでかかるChuck JacksonのAny Day Nowの歌詞を見ればドックの孤独が理解出来ると思います。


Chuck Jackson - 17. Any Day Now (Inherent Vice ...

出だしの歌詞は

Any day now I will hear you say, "Goodbye, my love"
And you'll be on your way
Then my wild beautiful bird, you will have flown
Any day now I'll be all alone

です。訳しますと、

"いつの日か、君は言うだろう「さよなら、愛しい人」
そして君は自分の道を行くのだろう
僕の美しき野鳥よ、君は飛んで行って
いつの日か、僕はひとりきり"

時代だけでなくシャスタにも去られてしまうドックが浮かび上がります。

小説版とのトーンの違い

この映画はよくピンチョン小説そのものだとか、完璧な映画化だとか書かれていていますがトーンについてはかなり異なっていると思います。

小説では常に陽気なサーフ・ロックがかかりドックも口ずさむのはビーチボーイズでも"Wouldn't it be nice"など明るい歌ですが映画版ではジョニー・グリーンウッドの重々しいスコアばかりで明るい曲は鳴りを潜めています。

 

PTAにとってのインヒアレント・ヴァイス(ここからはパラノイア妄想)

何故細かいギャグだらけでヒッピーの映画なのにこんなに重々しいのか!このことも次に書くことが念頭にあれば納得かも?

監督のPTAの前作「ザ・マスター」まで皆勤賞で突然ヘロインのオーバードーズによってこの世を去ってしまったフィリップ・シーモア・ホフマンの中に内在する欠陥”インヒアレント・ヴァイス”を見てしまうのはパラノイアでしょうか?
彼も船の積み荷(「ザ・マスター」は船がテーマでしたね)で保険が効かないインヒアレント・ヴァイスな物(ガラスは割れる、たまごも割れる)の一員で仕方がないことだったのでしょうか?

 

(2015.4.28 ミッキー・ウルフマンのその後とED曲について追記)