読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

430 Paper St.

映画が主の、趣味関心5次元空間

T2前に振り返るトレインスポッティング

(あらすじ)依存と共依存から命からがら逃げます

シック・ボーイの額から、汗が滝のように流れ落ちていた。震えている。俺はひたすらテレビを見つめ、やつに気づかないふりをした。こいつにはうんざりだ。俺は、ジャン=クロード・ヴァン・ダムのビデオのことだけを考えようとした。

―小説版 トレインスポッティングの書き出し

トレインスポッティングの映画版から20年が経ちT2が日本で4/7公開です。
トレインスポッティングとはどんな話だったのか、小説版と合わせて振り返ってみたいと思います。それにしても映画を観ずに初めて読んだ人は度肝を抜かれたであろう書き出しですね。シック・ボーイ。

まずトレインスポッティングの意味について間違った解説もちらほら見るため書いておきます。
英語ではTrainspottingなので見ての通りTrainとSpottingから成り立っています。
元の意味ではTrain(電車)をSpot(見つける)ということで、通る電車の型番を識別することです。「何系が走ってる!」と日本でもよくやっていますね。ひろく解釈してオタク行為のことをさすこともあるようです。

しかし、原作者のアーヴィン・ウェルシュはこの単語を別に解釈します。
Trainは電車の意味ですが、元は「連なる」という意味です。また、Spotは名詞の場合染みの意味があります、これを動詞のように解釈すると「染みをつくる」となります。つまり、アーヴィン・ウェルシュTrainspottingを「連なった染みをつくること」と解釈しました。この映画を観れば分かりますが、連なった染みとはヘロイン注射の痕のことです。しかし、実際小説版でも映画版でも作中でこの言葉について直接解説されることはありません。むしろ、小説版では列車見物の意味で一度出てくるだけです。

小説版ではなんと、腕の静脈が見えにくい主人公レントンは自分のおちんちんに刺すなどしています。妙に笑わせようとしてくるのも小説版の魅力なので是非映画を観た人も読んで見てください。ハヤカワから新訳で出てきています。

小説版について簡単に書きますが、処女作ということもあってか、かなり散文的で話が進んでいるのかどうなのかも分からずやたら登場人物が増えていくといった印象があります。しかし、その散文的な分、ドラッグになぜハマるのか、性事情やHIVについて、イギリスの階級について、映画や音楽やスポーツ、スコットランドの閉塞感、なぜ彼らは社会に向かわないのか等、真に言いたいことが散りばめられています。
映画版ではかなり多かった登場人物をいっきに絞り、話の筋も見えやすくなっています。主人公一味ですら8人くらいいたのでいい判断でしょう。

では、映画版で強調されたこのトレインスポッティング話の筋とはなんなのでしょう。それは”依存”と”選択”です。そしてこの、依存と選択とは対立する概念です。主人公たちは、ドラッグ依存です。冒頭いきなり、レントンは禁ヤクという”選択”をするものの厳しい現実とドラッグの魅力に抗えずまたヘロインへと”依存”していきます。

途中の電車で山に行くシーン(小説版にはありません)で「こんなクソみたいな国、新鮮な空気を吸ったってなんにも変わんねえんだよ!!!」とスコットランドの閉塞感についてレントンが叫ぶシーンがあります。この閉塞感の中で社会に限界を感じている主人公たちはドラッグでぶっ飛び、内輪に籠もります。主人公たちがドラッグへと走る社会的な要因が説明されるいいシーンとなっています。余談ですが、リバイバルのフィルム上映で一番輝いたのはこのシーンでした。昔DVDで観たときは映画の中で少し浮いたように見えていたこのシーンが映画の核であることが分かったいい体験でした。

また、彼らの依存は実はドラッグだけではありません。主人公一味は互いに”共依存”の関係があります。それが分かるのは映画版で大幅に足されたレントンがロンドンで生活をするシーンでしょう。レントンエディンバラの連中に見切りをつけ、ロンドンの不動産会社で働くという”選択”をします。まっとうに自立したかと思われましたがシック・ボーイとベグビーが一人暮らしの家へとやってきて生活を荒らされます。せっかく都会で大人になるチャンスであったのに、エディンバラの一味に潰されます。映画のクライマックスで、ベグビーの凶行とたばこの煙を被せられることが引き金となってレントンが”選択”をするシーンもロンドンでの一人暮らしのシーンから共依存の危うさを積み重ねられてることから自然に思えます。

Twitterなどでトレインスポッティングの続編決定について色々な感想が読めました。多かったのが「昔はかっこいいと思ってたトレインスポッティングの登場人物達も今見るとどうしようもない。ドラッグで身を滅ぼすなんてダサい。」といったような感想でした。
トレインスポッティングたちの登場人物たちはそんなに自分たちから遠く、下の存在なんでしょうか。私はそうは思えません。
電車で周りを見れば、SNSスマホゲームをやるため一心不乱に画面を触っている人たちがたくさんいます。ギャンブルがやめられない人だってたくさんいるし、毎日スーパーかコンビニでお酒やタバコを買わずにはいられない人もいます、これらはソフトな合法ドラッグと言えるかもしれません。アイドルにたくさん貢ぐ人もいるし、彼氏や彼女と数日離れただけで寂しくなる人もいます。かく言う私だって、文字を使わない作業中はラジオが欲しいし一日の多くを映画や小説やゲームなどフィクションに浸って過ごします。
みんな何かに依存しているのです。トレインスポッティングの主人公たちはヘロインという身を滅ぼす上に化学的な依存性があるものにハマってしまいます。しかし、レントンはドラッグ依存と一味の共依存に気づき、選択ができました。私たちは自分が依存しているものを自覚できているのでしょうか?気付けていない人もいるでしょう。さっき上げた例を批判したいわけではありません。しかし、気付けずコントロールできないことは問題だと考えます。もしかすると、依存に気づき脱することができたレントンはドラッグなんかやらない私達よりも上にいるのかもしれません。

では、T2トレインスポッティングに話を移します。
レントンは選択をしました。仕事や家族や家具を選ぶ選択をしました。
公開から20年経って、トレインスポッティングをリアルタイムで観ていなくても初見時から大人になった人たちが多いはずです。レントンの最後のモノローグのような選択を私達はできたでしょうか?
人生を、無限の選択肢から自由に選べたでしょうか?仕事や結婚相手を選べたでしょうか?家具や家電だってお金やスペースの問題でほとんど選べないのが人生かもしれません。
レントンがした選択とは次の人生の始まりに過ぎなかったのです。
20年後の彼らはどうしているでしょうか。彼らの選択の結果はどうだったのでしょうか?
レントンは、持ち逃げした金を元手にアムステルダムでクラブの雇われオーナーをしています。ベグビーやシック・ボーイには怯えているようで空手を習っています。そしてとはうまくいっていないようです。
シックボーイはロンドンでくすぶっていましたが、故郷のリースでパブを相続します。
スパッドは結婚をしていますが相変わらなので愛想を尽かされて少し参っているようです。
ベグビーは殺人罪で服役中で…
私達が理想の自分になかなかなれないように、彼らももがいているようです。続編でますます彼らのことが自分と遠い存在ではなくなりそうですね。

 

下書きに放っておいたら町山さんにだいたい言われてました。さっさと投稿すべきであった。

(2017.4.7追記)なお、町山さんはトレインスポッティングの意味の解釈は映画ファンが作ったように話されていましたが、原作でダジャレのような言葉遊び(トイレシーンでヤクの意味でのshitと便の意味でのshit等など多数)が多いためアーヴィン・ウェルシュは分かってタイトルにしていると思います。